記憶をつなぐプロジェクト


土と器、大堀相馬焼と暮らしの記憶 by Project NAMIE

「プロジェクト浪江」では、ふるさと「浪江町」の記憶、大堀相馬焼にまつわる暮らしの記憶の収集を進めています。ひとびとの記憶、ことばやつぶやきから、浪江町とそこに暮らすひとびとの姿が浮かんできます。
その土地に暮らした記憶を未来へつなぐために、私たちはプロジェクトを進めていきます。
イベント会場でも聞き取りなどお願いいたしますので、ご協力頂ければ幸いです。


※ ここに掲載したものは、これまでに記録したものの一例です。
※ 「失われた街」模型復元プロジェクトとして「記憶の街ワークショップ for 浪江」を進めている神戸大学槻橋研究室様のご協力を頂けることになりました。大堀地区の復元模型とともに、「土地にまつわるつぶやき」もイベントで展示いたします。
※ 神戸大学槻橋研究室がワークショップで記録したつぶやきは、KTとして一部を記載しました。

郡山市に住んでいる。浪江の出身ではないが、原発事故前は海釣りに出かけ、請戸漁港に立ち寄ることもしていた。帰りがけに大堀相馬焼の店を覗いたりしていた。郡山市で展示があるというので来てみた。焼き物が見られて嬉しい。大変なことが起きたんだよね。それをあらためて感じる。(70代夫婦)

子どもの頃、両親に大堀の窯元のところに連れて行ってもらった。小学校低学年だったと思う。ガス窯がとても大きくてこわい感じがした。(50代男性)

もう40年以上も前になりますが、浪江で油絵のサークルをはじめた小学校の女先生のところで、大堀相馬焼の窯元の奥さんと知り合い、ときどき絵付けのまねごとをさせてもらいました。簡単そうに思えても、なかなか難しかった。絵のサークルの先生は本宮の仮設にいるらしい。暖かくなったら会いにいきたい。(80代女性)

子どもの頃、両親に大堀の窯元のところに連れて行ってもらった。小学校低学年だったと思う。ガス窯がとても大きくてこわい感じがした。(50代男性)

大堀は細い道が入り組んでいて、外から来たり、新しい道路ができたりするとよく迷った。
大堀の人はみんな簡単であれば相馬焼を作ることができる。地域の産業で小学校の授業でも取り組んでいたから。大堀の人のたしなみとなっている。(70代男性・KT)

子供の頃、おだくら山にくるみを取りに行った。山は茅葺ためのかやの狩場だったので木が生えていなかった。水月堂の五十人山というお菓子のためのくるみで持って帰るとお金がもらえた。7kmくらい自転車を漕いできて、道もないようなところを登って山を越えて、くるみをとった。(40代男性・KT)

小学5年くらいのとき、遊びともだち5-6人で自転車を漕いでくるみをとりにいった。水月堂で五十人山に使うので、買い上げてくれるというので、小遣いかせぎ。一日かけて遊び遊びくるみをとってきて、日暮れ頃店にいくと、ちゃんと買い上げてくれた。だけど、あそこはくるみの畑だったんじゃないかな、と皆で話し、妙に静かになって帰った。くるみの樹はきれいに手入れされていた。罪悪感を感じてたんだな。(50代男性)

お祝いに贈ったりして、浪江の人はみんな大堀相馬焼を持っていた。普段使いの湯飲みや、灰皿のほか、茶箪笥のなかに来客用の湯のみ一揃えを飾っている家が多かった。(40代夫婦)

小さい頃、おとなたちは相馬焼と言っていた記憶がある。正式には大堀相馬焼と言うんだ、と、あらためて聞かされた記憶がある。(50代男性)

Project担当者から
中学に入る頃から、父親とはあまり口もきかなくなっていたが、父が死んでしまい、大堀相馬焼の器に接するとき、その向こうにふるさとの記憶が蘇ってくるのを感じる。
ふるさとがすべて好ましい記憶に満ちているわけではないが、嫌悪も後悔も羞恥も誇りもないまぜになって、ふるさとの土に染みついている。
二重焼、青ひび、走り駒の大堀相馬焼の湯のみは、死んだ父親が使っていた。それも割れてしまい、もう跡形もないが、大堀相馬焼の重厚な姿は、いつの間にか父親の姿と重なって見えてくるようになった。
父親の姿はふるさとの姿と重なる。母親の姿もまた、ふるさとの記憶のなかにある。自分の子どもが成長するにつれて、その記憶をどうつないでいけばいいか迷うときがあるが、人が住めない町にも、かつてはあたりまえの暮らしがあったことを、足跡として記録し、残していきたい。(50代男性)

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